何が、起こった―――――――――?
『――――――――ぇ』
「ぁ」
唐突に、苦しみが去っていく。
首に未だ絡みついている手は、独立している。
腕が完璧に消えてしまった、そして首に残された手も力を失いすぐ消滅。
両者とも、一体どうなっているのか理解出来るはずもなく。
『ぅぁ、ぁ、あ、あ゛あぁああぁぁああ゛あ!!』
「な、に、っ、ちょ」
二の腕すらない、酷の右肩から先が全て一瞬にしてなくなってしまった。
血など出ない、酷はただの人々の念の塊だから。
人体構造は形成されているのだろうが、そこに血は流れていない。
だが、彼らには―――【痛覚】がある。
他の感覚はあまり敏感ではないが、己の危険を察知するためにその感覚だけはあるらしい。
『ぎっ、がぁ、あ゛ぁッ』
いきなり、丸々腕一本を切り落とされたなら、普通でいられるわけがない。
それどころか、今回の場合は爆発だ。
まるで風船に空気を入れすぎて、ゴムが耐えきれずに破裂してしまったかのような。
首から圧迫が消えたことにより私は苦痛から解放されたが、今度は彼がそこに叩き落とされた。
いや、私よりも遙かに深い場所へ。
ショック死してもおかしくない、だが酷にはそんなものあるはずもない。
こんな状態になったとしても、彼らは【死】というものを知らないのだ。
『でめ゛ぇ、何しやが、っ、だぁぁあ゛ああぁ゛あッ!!』
心の底からの、怒号だったのだろう。
残っている方の腕を、高々と振り上げる。
真っ直ぐ狙いを私に定めた彼は、確実に拳を顔面に叩きつける気だったはずだ。
彼にとって首など狙っている場合でなくなったことは、私でも分かる。
酷が人を支配する場合、最も体を傷つけずに得る方法として首を絞めるという手法が用いられる。
しかし訳の分からないまま片腕一本を失ったのだから、さらのその原因を私だと思い込んでいるようだから。
私さえどうにかすれば良い、と思っているに違いない。
つまり私は逃げようとしなければならなかった、叩き込まれれば歯を何本か持って行かれてしまう。
それどこか歯茎を破壊されるかも、そして頬骨も粉々に砕けるかもしれない。
なのに、体は一切の機能を無くしたかのように、動いてはくれなかった。
私とのリンクが切れてしまったようで、神経からどうにかなっているらしい。
そういえば、頭痛はなくなっている。だが状況が悪化した今、そんなこと関係なくなった。
怒りにのみ染められた瞳が、襲いかかってきている。
それから視線を逸らすことは許されず、来るべき衝撃に耐えようと全身が強ばった。
いや実際には、強ばったつもり、になっただけだが。
拳が空気を切って、―――頬を殴りつけられる、寸前。
私の視界を、黒が覆う。
大きな大きな、羽音が届く。
橙に染められている空間には不釣り合いの、色。
黒闇色のそれは、横へ横へとまるで【現在進行形で成長している】かのように、拡大し続けていた。
『なっ――――何で、勝手に』
「で…っか」
酷の背から、何の前触れもなく双翼が出現した。
酷にはこんな奴もいるのか、翼なんてあったら便利だろう。
純粋に羨ましくなったが、色は嫌だ。どうせならパステルカラー系統が良い。
などという、メルヘンなことを考える暇などない。
彼自身も予想だにしていなかったようだ、驚愕に目を見開いている。
本人の意志に関係なく、いきなり飛び出てくるなんて有り得るのだろうか。
ハラハラと数枚の羽根が舞い散っている、それだけで済めば良かったのに。
今度は、それが全部、霧散。
ある意味で鮮やかに、消滅。
『ぅっ―――そ、だ』
引き千切られたも、同然。
空間へ刹那で溶け込み、彼のものではなくなっていく。
呆然と、何の反応も出来ず、私はその光景を見つめるしかない。
音はしなかった、まるでそれが当然であるかのように消えてしまったのだ。
出現して、どうしてすぐにこんなことになる。
【何かに耐えられなかった】、ようにも見えたが、気のせいだろうか。
『なっで、何で何で何で何で何で何で何で』
そんなこと訊かれても、私が答えられるわけがない。
微かに彼の背に残っている翼が痛々しい、目を背けた。
片腕を失い、さらに翼を失い、彼は一体どうするつもりだ。
私は言霊を使っていないのに、―――勝手に、彼の方が壊れていく。
断末魔に近い叫びが彼から発せられて、耳を塞ぎたくなるが……そこで、気が付いた。
(あっ―れ?)
先ほどと比べて、足やら手やら、石になっているかのよう
神経云々の問題ではない、骨の髄から硬化している。
せっかく逃げられるチャンスなのに、それをいかすことは出来なさそうだ。
朦朧とし始めた脳内をどうにか働かせて、彼の様子を見続ける。
どうやら背から激痛が頂点に達したようで、蹲って先ほどの断末魔も出なくなる。
あんな消滅の仕方をしたのだ、ただじゃ済まないだろう。
無理矢理もぎ取られたような、絶対に私は耐えられないであろう痛み。
『ち゛ぎ、しょ…!!』
ぎらついている、紫。
睨み付けられた私は、背筋に嫌なものが走ったことを認識。
酷が念を叩きつけてきたのだ、けれどこんな程度じゃ私に影響は何もない。
だが、その眼光に呑まれそうになる。
憎悪を全身で受けてしまい、今度は心臓を締め上げられたよう。
相手の方が明らかにダメージが多いはずなのに、全く形勢は変わっていないような錯覚。
(わた、わたしはっ、何もしてない、わたしは何も、わたしは…)
声に出したかったのに、原因は他にあると言いたかったのに。
その想いは誰にも届かず、ただ彼の憎悪を増させているだけだった。
泣きたくなる、酷であり私にとって良い存在ではないはずの彼の姿を見ていると、このままではいけない気がしてきた。
助けたい、と思っているのかは自分でも分からないが、どちらにせよ私に彼が救えるのかどうか。
失われた所を元に戻すなんてこと、出来るはずがない。
「えっあの、その、大丈っ夫、か?」
『それッ、真面、目に訊い――てるっ、て、なら、殺す、ぞ…!!』
余計、睨まれる。
しかし、今の彼の状態では、私を殺すどころか何も出来はしないだろう。
それが分かっていたからそんなセリフ聞き流し、辺りを見回してみる。
どうしてこれほどまでに人がいないのだろうか、誰も通りがかりはしない。
まぁ、ある意味で良かった。こんな所を見られてしまってはややこしいことになる。
「ほっほら、こんな状況だから、とりあえず休戦とかしません?」
こちらとしては、戦意など最初から持ちたくもない。
宥めつつもどうにか提案してみた、受け入れてもらえるとありがたい。
頬が引き攣っている、一応、笑っているつもりだったのだが。
それに、こんなにボロボロになった相手にさらに攻撃しようとも思わない。
あっ、でも私の言霊は彼に効かなかったのか。
『……てめっ、ふざけて』
「ああ違います違いますって、このままじゃお互い不利益ばっかりじゃないですか。だから一旦落ち着きましょうよ」
こういう性格の相手は、やりづらい。
どうにか熱くならないように言いたいが、それを聞く相手でもない。
もう少し冷静になってもらいたいものだ、そうでなければ彼は確実に消える。
「あの、知り合いに闇影がいるから、その人達に頼めばどうにかしてくれると思う―」
『馬鹿が、あいつら、のとこっなんて――行ったらすぐに、俺は強制、―帰還さ、るに決まってっだろッ!?』
「え、あれ、知ってるんですか?」
『知ってる、てめぇがっ、一ヶッ月前に、出会った、ことも、知っ―てるっ!!』
「―――――――――はぃ?」
何だ、それは。
どうしてそこまで私のことを知っている、何でそんな前のことを。
思わず彼を凝視してしまった、それに応えるのかどうか怪しかったが、舌打ちをして話し始める。
『てめぇを襲った酷は、俺がけしかけた酷だ。元々、俺が支配しやすい状況にするために弱ぇ酷でギリギリの精神状態にしようとしたんだよ』
何だッ…と?
あの、あの冷気に侵された空間を創った酷を、放ったのはこいつ?
恐怖の底の底へ叩き落とした酷を、指示していたのはこいつ?
あの二人が来ていなければ、私はこいつに支配されていた?
そんなこと、そんなこと知らない。私は、知らない。
『一ヶ月前、本当は、俺がてめぇを、狙った。それを、あの二人に、邪魔され、ったから、―しかも、てめぇが、闇影になる訓練までっ始めやがッるか―ら、様子見、で一ヶ月以上、てめぇを放っ―ておいた、んだッ!!』
それでは私が万事屋に行っていたことも、こいつは知っているのか。
何もかも、――私の言霊の練習も、こいつは知っているのか。
最初に首を絞めるのを手加減したのも、私が闇影として存在しているのを知っていたからか。
力量がどんなものか測るために、そうしたのか。
だが明らかに私の方が弱いと、判断しているかのようだった。
―――――――彼が一体、私の何を知っているという?
『やっと、支配っ出来ると、思っ―たら、このッ様だ…チクショウっ』
「冗談じゃない」
今度は、私が怒る番。
沸々と、あらゆるモノが混ぜられて煮込まれて湧き出てくる。
それは彼に対しての感情もあるが、何より自分が不甲斐なかった。
でも今その想いを認めてしまうのも嫌で、だから彼に言葉をぶつける。
そうしなければ、やっていけない。
今までの努力は何だったのだ、たった一ヶ月だけれど、それでも私は必死でやってきた。
こいつは、それを高みで見物していたわけか。せせ笑いながら。
「しかもなんだ、あんたをそんな状態にした奴が私って言いたいのか、私は何もしてないッ!!私はあんたにまだ何もしてない!!言霊もきかなかったし、抵抗もしてない、私はあんたを傷つけてもいない!!」
理不尽だ、何もかも。
彼が私に憎悪を抱く理由は、どこにもないじゃないか。
逆に、私が彼に憎悪を抱く方が正当であろう。
やっとのこと、私の言葉は彼に届いたようだ。
いきなり怒鳴られるとは思わなかったのだろう、彼は目を大きく見開いていた。
ぜぇぜぇと呼吸をする、身体は言うことを聞かないものの顔だけはちゃんと動いてくれた。
先ほど睨まれたお返しと言わんばかりに睨み返してやる。
どちらも身動きが取れない以上、それより先に進展はないように思われた。
両者互いに言葉を発さなくなると、訪れたのは静寂。
―――――――――静寂?
そう言えば、他の部活動をしている人達の声はどこへ消えてしまったのだろう。
校舎が、まるで深夜の時間帯の如く静まりかえっている。
先ほどまでは気付かなかった、陽はちゃんとあそこにあるのに。
異常な状態になっているのは私達だけではなかった、【空間自体がおかしい】。
「あぁ確かに、てめぇは何もしてねぇよ」
そこへ、声が落ちてくる。
「【結界張ってやってたってのに】それにも気付かねぇんだなてめぇら」
見上げてみれば、不敵に笑う緑が昇っていた。
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